480年の歴史ある福岡県大川市の桐家具の専門店「桐里工房」が制作する伝統工法で組み上げたモダンなデザインの囲炉裏テーブル

大川家具の歴史と榎津指物の起こり6

大川家具の歴史と榎津指物の起こり6

明治時代中期[明治22年(1889年)]大川木工の(榎津指物)の発展のきっかけ

明治22年(1889年)には、 町村合併により大川町が誕生して、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。この発展の原因は、塗装方法や木工品製作の基本となる機械の導入と進歩等の技術の発展の他に、材料の木材が十分に確保出来た事と、家具の販売先が広がった事が上げられます。

明治28年、稗田松次郎(武夫の父)とユミ(武夫の母)の間に長男の宇一が、1年後に和一が産まれました。

明治時代後期[明治42年(1909年)]
ーー大川指物同業組合が結成されるーー
明治の後期になると榎津指物技術も進歩してより精巧な品物が出来る様になり、家具の製作販売力も伸びて続け、指物師の数も増えていきました。
この頃の大川町の大工には異業種によって呼び名が分けられる様になりました。先ずは舟大工に屋大工、建具、組子大工、指物大工に宮大工、彫物師、その他に「桶」や「おひつ」等を作る詰物大工、臼や大鉢や器類を作る、くり物大工と呼ばれて、殆どが半農半工によって職人達は腕を振るっていました。
又、この頃に材料問屋が木材の手配をして、木挽き職人を雇って乾燥まで行っていました。

 大正時代の大川鉄道とは

 『大川には西鉄大川駅があった』No.1

大正時代の幕開けの[1912年(大正元年)12月30日]大川鉄道が、開業しました。今の大善寺駅から大川市(大川町)の西鉄大川駅の間を結んでいた西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線ですが、その開業の目的は、旅客の他に城島や大川で生産される酒や、大川の家具、畳表等の貨物輸送が主な目的でした。
この鉄道開通により、大川指物の販路も、輸送範囲も格段に広がりました。

大正時代の大川指物

大正2年(1914年)第一次世界大戦が勃発。
この大戦時の四年間、及びその直後は日本中に好景気が沸き上がりました。大川の指物業界も、その好景気の恩恵を受けて、多くの家具の販売店が登場しました。
しかし大正9年にもなると、今度は戦後の不況が押し寄せ、日ごとに不況感が高まっていきました。
しかしこの様な状況の中、大川指物同業組合は、更なる努力を重ねて、品質の向上に努め、不況の波を乗り切る為の販売先の開拓や榎津指物のPRに乗り出します。
各地で開催される博覧会や、共進会、品評会等に、主な業者(問屋)の自信作の出品を積極的に進め。榎津指物の宣伝に尽力しました。この為に、近隣市町村に販路が広がり、大川鉄道の貨物輸送も手助けとなって、業者数もその従業員数、生産高も、共に好調な成長を続けて、この大正時代中期には、更に品質を向上させた榎津箪笥は、最盛期を迎える事になります。

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