480年の歴史ある福岡県大川市の桐家具の専門店「桐里工房」が制作する伝統工法で組み上げたモダンなデザインの囲炉裏テーブル

大川家具の原点 -榎津指物ー

日本で言う「指物(さしもの)」の名の由来については、諸説ありますが、ほぞや継ぎ手によって材を組む事を「指(さ)す」といい、又「物指し」を用いる細工をするからとも言われています。

指物(さしもの)の技術者を指物師(さしものし)と呼んでいます。

日本の木工の中の指物は、平安時代の宮廷文化が花開いた京都が発祥の地と言われています。以来、職人達がこの技法を学ぶために全国から集まり、習得した技術を各地に広めてきました。

室町時代[1336年~1573年]に起こった京指物は宮廷内で使用する為に、優雅で上品な外観重視の造りになっていきました。板厚も出来るだけ薄くして、宮廷好みの、品の良い仕上がりが京指物の原点です。

これに対して江戸指物[1650~]は徳川幕府が江戸中心に文化の発展を図った事で始まりました。造りも堅固で粋な江戸気質を表現した製品となっていきました。

大川の榎津指物は[1536年]室町時代後期に榎津久米之助によって始められたと記載されています。

室町時代後期の戦国時代、室町幕府十二代将軍、足利義晴の家臣、榎津遠江守の弟として、1486年に生まれた榎津久米之助。

大川市榎津本町の願蓮寺に今も残る古文書によると、彼は兄の戦死後、天文4年[1535年]に出家しました。翌年天文5年[1536年]に49才で大川(筑後国)へ家臣と共にやって来て、一寺を健立し、「願蓮寺」と名付けました。

その頃の大川は有明海から筑後川の干満の差を利用した、木造船の往来が容易であった為に、大川の港は繁栄し多くの物資の集積地となり、海上輸送が盛んに行われていました。木造船の製作には多くの熟練した舟大工がおり、その技術を継承していました。

その材料は、筑後川を利用して川上の山林から筏を組んで、大川迄流して運搬しており、川下の大川は豊富な木材の集積地であり、港が栄える事で大川は筑後平野の物資の集積地でもありました。

榎津久米之助は、家臣や弟子達の生活の為に、この地の豊かな木材と高度な技術を持つ舟大工達の技を学ばせ、指物(家具)を作らせました。これが『榎津指物』の起こりとされています。

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大川家具の歴史と榎津指物の起こり1

榎津久米之助は安土桃山時代の天正10年[1582年]8月10日、96歳で死去しました。その後、家臣達は榎津久米之助の精神を受け継いで、榎津指物を製作して(調度品や家具、収納箱、武将箪笥(たんす)等々)、立派に工商を成していきました。

主に使用した木材は、桐の木や杉、檜(ひのき)、もみ、他雑木類。

また、天正17年[1589年]天草の志岐一族は、加藤清正によって滅ぼされた志岐城を明け渡し、志岐経長は弟の経弘、他郎党数名を伴い、島原湾、有明海を北上していきました。

そして筑後川の左岸の大川榎津の願蓮寺の開祖、故榎津久米之助(僧名ー善明)を頼って、大川の地に移住してきました。

経弘(又兵衛の父)と久米之助は、生前より旧知の仲で、同じ武家ということで昵懇(じっこん)の間柄でありました。

志岐経長一族は苦労しながらも、久米之助の家臣達の協力も得ながら、花宗川のほとり(庄分)に定住する事が出来ました。

当時の柳川藩主、立花宗茂は志岐一族が持っている高度な造船技術力を活用して、大きな木造船や家屋の建造に取り組み、かたや建具や調度品や武将箪笥、籠等を作らせました。

使用されてた木材は主に桐、杉、檜(ひのき)、竹でした。

この様に海洋族である志岐一族が、榎津の庄分に移り住んだことによって、造船技術力の更なる高度化や屋大工や建具そして榎津指物の発展に繋がっていきました。

江戸時代の榎津指物

江戸時代になると、大川は筑後川水運と有明海航路を結ぶ要港として栄えました。

また、江戸時代の大工(基本的には半農半工であった)は、屋大工の傍ら建具も作り、家具調度品や武将物等も作っていきました。

その中で腕利きの大工で意欲のある者が、他国の指物師に弟子入りし、その技術を習得して大川に持ち帰り、今までの榎津指物に新しい指物技術を取り入れ、榎津指物を確かなものにしていきました。

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大川家具の歴史と、榎津指物の起こり2

江戸時代後期になると大川には舟大工100名、榎津指物の流れを汲んだ指物師80名が腕を競って、木造船や、建物、建具、組子、欄間彫刻、そして家具調度品を製作していきました。

この頃、田ノ上嘉作が文化9年[1812年]に榎津長町に生まれました。

田ノ上嘉作は職人として修行を積んでいきましたが、18歳の頃、大阪で指物の細工を学んだ優秀な指物師が久留米にいると聞き、直ぐに弟子入りをしました。その技術を学んで大川に持ち帰り、今までの榎津指物に箱物技術を加えて新しい箱物家具を作り始めました。

この技法は子の儀助、更に孫の小平次へと伝承され、これが榎津箱物の始まりと言われています。

さらに、嘉作の死後、もう1人の孫に当たる田ノ上初太郎が家業を継ぎ、16歳で嘉作の名を名乗るまでになりました。彼は長崎の唐木指物の細工技やオランダ家具の技法を学び、榎津指物に新しいこれらの技法をとりいれて榎津指物をさらに確かなものにしていきました。

小降りの桐たんすも作ったようで、大牟田の『T氏』宅にこの2代目嘉作の桐箪笥が現在も残っています。

又、嘉永6年大川で創作された製作年号入りの桐たんすが、大川市の管理のもと、学術調査を行った後、保存されています。

大川家具の歴史と、榎津指物の起こり3

江戸時代後期[万延1年](1860年)幕末時代から明治維新にかけて

江戸時代後期の幕末には、大川の榎津指物は、港の更なる繁栄に伴い、指物家具の需要も増えていきました。

榎津指物は舟大工の高度な技術力が基本になって、進歩していった為に、質素な表向きと堅固で板厚みも出来るだけ厚く仕上げ、頑丈な作りが好まれました。又、和服もお洒落着が流行して華やかな男女の着物が定着していました。

ところが、九州での気候は高温多湿な為に大切な着物にカビが生えてしまう為に、どうしても桐箪笥が必要でした。

この為早くから大川では桐箪笥が独自の技法で作られていました。

この頃の田ノ上初太郎(二代目嘉作)製作の、現在も残っている桐箪笥の作りを見てみると、大正、昭和初期に造られた桐箪笥と同じ技法になっています。

大川独特の桐箪笥 は胴板(ガケ板)と棚板の組み手に前蟻組と後蟻組が使われている事が他国と違う手法になっています。

この事から大川の桐箪笥は他国の影響を余り受けずに進化したと考えらます。

又、箪笥の呼び名も幅6尺の箪笥を一間物、幅5尺は八合物と呼び、3尺巾は五合物とよんでいました。

この頃の大川で、榎津指物で製作された物は桐の箱物各種、桐箪笥、桐の手あぶり火鉢(角形)、三味線箱や書棚、飾り棚、文箱、文机、座鏡台、座卓、帳ダンス、刀箪笥等、背が低いものが主に造られていました。

『明治時代(明治10年頃)[1877年]』榎津箪笥が生まれる

明治時代になると、いよいよ大川独自の形状をした榎津箪笥が登場します。
杉と貴重な桐を主材料に使用して、手作りされた榎津箪笥は、間口巾が一間程ある大型の収納箪笥が主で、堂々とした外観に、板の厚みを出来るだけ厚く仕上げる事で堅牢な造りになっていました。

他の産地には見られない技法で、前蟻組と、後蟻組で、胴板と棚板が組まれており、棚板は縦方向に木目を使い、片面張りと両面張りがありました。
大川の榎津指物では、引き出しの滑りの良さと完璧な気密性を重視されていた為に、引き出しの底板と棚板の木目方向を同じ方向に使い、引き出しの開閉が滑らかにすべりが良く、吸い付く様な具合に作られ、光も水も箪笥の中に通さない様に製作する事が、高度な技術力を持つ榎津指物師の腕の見せ所でした。


この様な作り方や思考は、他の産地には無く、榎津箪笥(榎津指物)独特の製作技法でした。この様な独自の技法が用いられていた為に、百年以上前に製作された箪笥でも、大川で製作された物と判断出来ます。
また、昔の各職人には独自の作り方と癖があり、それらの古い箪笥は大川の誰が作った品物であると分かり、また技術力の良し悪しまで分かってしまうのです。

大川家具の歴史と榎津指物の起こり5

丁寧に仕上げられた、白木のままの生地箪笥は、塗りを施されますが、蝋を塗り込んだ白木仕上げに、拭き漆仕上げ、黒漆塗りを施したものがありました…。特にその後に蒔絵を入れた豪華な仕上げの箪笥もありました…。桐箪笥(杉と松と桐を併用)にはヤシャブシと砥粉を塗った後に天然蝋の本イボタ蝋で仕上げていました。


又、箪笥の金具は、地元の上巻地区で打たれていた独特の、手打ち金具が使用されていました。この金具には鉄、銅、真鍮等を用いて、薄いタガネによる細やかな透かし彫りを施すという大川独自の手法を用いて、錺(かざり)金具や家紋入りの金具が造られていました。特に取り外し式の丁板が開き戸には使われていましたが、他の産地には見られない大川独自の特長ある金具と言えます。

当時、1棹の榎津箪笥を完成させるには、

  1. 木挽き職人—–丸太を挽き鋸(のこ)で製材する。
  2. 指物師—–生地仕上げの箪笥を製作する職人(生地師)
  3. 塗り師—–漆塗り職人(漆の専門職)と桐箪笥の専門塗り師
  4. 錺(かざり)金具師—–箪笥のデザインによって特注された錺(かざり)金具を手打ちする職人
  5. 金具打ち師—–金具の取り付けを行う職人

この様な大川の伝統の中で、磨き込まれた高度な技術を持った、五業種の職人達がその技術力の合わせる事によって製造された作品が『榎津箪笥』だったのです。

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大川家具の歴史と榎津指物の起こり6

明治時代中期[明治22年(1889年)]大川木工の(榎津指物)の発展のきっかけ

明治22年(1889年)には、 町村合併により大川町が誕生して、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。この発展の原因は、塗装方法や木工品製作の基本となる機械の導入と進歩等の技術の発展の他に、材料の木材が十分に確保出来た事と、家具の販売先が広がった事が上げられます。

明治28年、稗田松次郎(武夫の父)とユミ(武夫の母)の間に長男の宇一が、1年後に和一が産まれました。

明治時代後期[明治42年(1909年)]
ーー大川指物同業組合が結成されるーー
明治の後期になると榎津指物技術も進歩してより精巧な品物が出来る様になり、家具の製作販売力も伸びて続け、指物師の数も増えていきました。
この頃の大川町の大工には異業種によって呼び名が分けられる様になりました。先ずは舟大工に屋大工、建具、組子大工、指物大工に宮大工、彫物師、その他に「桶」や「おひつ」等を作る詰物大工、臼や大鉢や器類を作る、くり物大工と呼ばれて、殆どが半農半工によって職人達は腕を振るっていました。
又、この頃に材料問屋が木材の手配をして、木挽き職人を雇って乾燥まで行っていました。

 大正時代の大川鉄道とは

 『大川には西鉄大川駅があった』No.1

大正時代の幕開けの[1912年(大正元年)12月30日]大川鉄道が、開業しました。今の大善寺駅から大川市(大川町)の西鉄大川駅の間を結んでいた西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線ですが、その開業の目的は、旅客の他に城島や大川で生産される酒や、大川の家具、畳表等の貨物輸送が主な目的でした。
この鉄道開通により、大川指物の販路も、輸送範囲も格段に広がりました。

大正時代の大川指物

大正2年(1914年)第一次世界大戦が勃発。
この大戦時の四年間、及びその直後は日本中に好景気が沸き上がりました。大川の指物業界も、その好景気の恩恵を受けて、多くの家具の販売店が登場しました。
しかし大正9年にもなると、今度は戦後の不況が押し寄せ、日ごとに不況感が高まっていきました。
しかしこの様な状況の中、大川指物同業組合は、更なる努力を重ねて、品質の向上に努め、不況の波を乗り切る為の販売先の開拓や榎津指物のPRに乗り出します。
各地で開催される博覧会や、共進会、品評会等に、主な業者(問屋)の自信作の出品を積極的に進め。榎津指物の宣伝に尽力しました。この為に、近隣市町村に販路が広がり、大川鉄道の貨物輸送も手助けとなって、業者数もその従業員数、生産高も、共に好調な成長を続けて、この大正時代中期には、更に品質を向上させた榎津箪笥は、最盛期を迎える事になります。

大川家具の歴史と榎津指物の起こり7

大正時代の仲買人、問屋業者と小売店

この頃になると、指物大工(生地師)が作る榎津箪笥は、何も塗装をしていない、白木の状態で(生地仕上げ)仕上げられた箪笥を、仲買人や問屋業者が買い取って、塗装と金具打ちの仕上げを行っていました。

各地での博覧会や品評会にはそれらの大川町の有力問屋が出品していた為に、指物師や錺金具師の名前が出る事は殆ど無かったのです。
町の有力問屋業者は腕の良い指物大工(生地師)を選んで、造りの良い箪笥を買い入れていました。(生地のまま仕入れる為に品物の優劣が分かりやすく、選別が厳しいものでした)
その為に職人同士の技の切磋琢磨によって、大川の技術力が高度化していきました。

大正時代の問屋には           

  • 中島忠五郎商店(長町)           
  • 松本由太郎(長町)           
  • 中島佐助、佐八商店(榎津)           
  • まる徳家具(籔町)           
  • 肥前屋(庄分)

等がありました。

大正時代の木工機械の導入

また大川の木工業者の中には広がる需要によって木工機械の導入が進められます。
大正11年に、問屋を営んでいた松本由太郎(藪町)が「丸鋸、帯鋸、カッター、手押し鉋盤、自動鉋盤、角のみ盤」等の木工の基本的な機械(道具のような機械)が初めて導入されました。

この松本由太郎が使用していた当時の機械は、現在そのままの状態で、村上機械の会社内にある大川木工産業資料館で大切に保管されて、展示公開されています。

大川の歴史 大川木工産業資料館 桐里工房

しかし安全性が考慮されておらず、弟子の中には、ケガをする者も現れたり、作業効率と生産性は上がりますが、急がせるため、仕上がりが悪くなる事もありました。

大川の歴史 大川木工産業資料館

大正1 1年に大川で最初に機械が導入された、その時代の松本由太郎の機械が大川木工産業資料館に保存されています。

これらは、大正11年に実際の取引上の実際に使われた書類です。

  大正時代の稗田木工 

当時の稗田木工所(現在の桐里工房)では、宇一が農業を行い、和一によって桐箪笥の製作が行われていました。
   和一は大工道具だけの、製作を貫き、弟子達には「なるべく機械は使うな」と言う指導を行っていました。

1923年(大正12年)9月1日 午前11:59分

マグニチュード7.4の関東大震災が発生する!
広範囲の火災が発生する! 関東、横浜は壊滅的な被害が広がる!

この大地震の復興の為の需要も加わり大川の指物業界は全国に知られる様になっていきました。そして大正14年いよいよ2代目稗田武夫が、和一の元で修行を始めます。

大川家具の歴史と榎津指物の起こり8

新しい波乱の昭和時代

昭和元年[1926年]
昭和の幕開けは大正12年の関東大震災の煽りもあり、昭和金融恐慌[1927年(昭和2年)]が発生して日本国内は不況の波が押し寄せます。

しかし昭和の新しい時代を向かえた大川は、婚礼家具や桐箪笥を中心に今までのデザインから脱却して新しい技法やすっきりした外観の桐箪笥を開発していきます。

隅金具無しの桐箪笥(昭和10年製)

   従来の榎津箪笥に使われていた、隅金具を使わずにシンプルな桐箪笥に変わっていきました。日本が大陸に侵略の方向に進む中、大川では半数以上の木工所が桐箪笥を製作しており、大川は婚礼道具の生産地として益々有名になっていきました。

【本村氏製作の昭和の桐箪笥】

【桐里工房製作の桐箪笥】

【松本(永松)氏製作の昭和の桐箪笥】

【現在の金具】

大川家具の歴史と榎津指物の起こり9

大正時代から昭和の戦前迄には桐箪笥の職人達と、雑木箪笥(楠や欅、栗、桜、楢、セン壇等の広葉樹)の職人達が、手作りで製作をしていました。
   その職人の六割以上は桐箪笥の製作に腕を競いあっていました。    嫁入り道具は箪笥長持ち唄と一緒に、多くの花嫁さんが、桐箪笥や長持ちと共に大切な婚礼道具として嫁入り先に運ばれました。大川の婚礼家具はこんな素朴な習慣から生まれたのです。

 筑後川昇開橋の完成

【筑後川昇開橋と佐賀線[1935年(昭和10年)に開通]】

  [1935年(昭和10年)]開通
東洋一と言われ、日本最古の昇降する可動式の筑後川昇開橋が日本の技術の粋を集めて昭和10年に完成しました。同時に国鉄鹿児島本線(瀬高駅)から、長崎本線(佐賀駅)を結ぶ短絡腺(総延長24k)で『佐賀腺』として開通しました。 大川市内には筑後若津駅、そして筑後大川駅、東大川駅の三ヵ所の国鉄の駅があり、米や木材、そして大川の家具の輸送等に利便性が向上し、街の発展に大きく寄与しました。

 戦後の車の普及と共に、国鉄が現在のJRとして民営化された昭和62年(1987年)に佐賀腺は廃線となり、昇開橋はその役割を静かに終えました。
現在は国指定重要文化財(平成15年指定)となって、佐賀市と大川市が観光の為に保存公開しています。

筑後大川駅の開業は昇開橋と共に賑わい、大川のシンボルになっていました。しかし4年前の満州事変をきっかけに日中戦争[1937年(昭和12年)~1945年(昭和20年)]が勃発して、長期化に伴い1938年(昭和13年)に国家総動員法が施行され、国民徴用令も[1939年(昭和14年)]に発令され、日本は太平洋戦争へと(1934年~)宣戦布告して、第二次世界大戦の勃発につながりました。

この為大川の家具の生産は、中断する事になります。
この様な状況の中、大川の木工関係者は後継者育成の為に、三潴郡大川町向町に、木工の後取り教育として大川工業学校を設立させます。  大川の木工の為に終戦後の大川の家具の生産再開を考えての事でした。

   戦中の大川の木工所や学校は軍需工場となり、木製の飛行機を製作していました。又、造船所では、路面電車等を木製で作らせていました。

[1943年(昭和18年)]稗田木工所の2代目稗田武夫に召集令状が届きました。   34歳で、1年数ヶ月の間、満州へ出兵しましたが、終戦の昭和20年には無事に帰国しました。

大川家具の歴史と榎津指物の起こり10

戦時中の大川

大川で木製飛行機の製作

[品質日本一]軍の評価 練習機『白菊』の主翼製作

大川で戦闘機の木製飛行機を製作していたのは、大川市酒見中原にあった「旭航空機製作所」。

旭航空機製作所は1943年(昭18年)12月に設立されました。

場所は、中原公民館の近くにあり、巨大な平屋建物が密集していました。地元の材木商が、戦況報告会で飛行機が足りない事を知り、資本を投じて設立しました。
当時は成人男性の軍需工場への徴用が多く、大川に木工飛行機の工場を作る事は大川の木工技術者の「徴用逃れ」との側面もあったとの見方もあります。
この工場で作られた部品(主翼と尾翼)は春日市の九州飛行機製作所まで運ばれ、そこで機体を組立てていました。   1944年の3月に生産を初めて、わずか15日の3月15日には初号機に用いる主翼等が完成しました。

これらの部品(主翼、尾翼)、軍の強度検査で『木製飛行機の強度で日本新記録』と評価され、ここでも大川の木工技術の高さが日本一と軍需省から労いの賞状が届いたほどでした。

 工場は主翼班、尾翼班等、10班に分かれて作業をする班制度を取っていました。大川の木工技術者や大川工業学校(後に筑西工業学校とも呼ばれていた)の学生などや女性も加わり常時700人がいて、この中に桐里工房の従業員であった、故黒田氏がこの事業に大川工業学校の生徒として動員されていたと本人から聞いていました。

この他に、戦時中の大川には、大川航空(株)、古賀航空機製作所、八大航空機製作所、勤労者航空機製作所など、5つの飛行機製作所がありました。大川の木工技術者を大川に留めたと云う事も考えられます。
この飛行機の製作によって考案された、各班に分かれて作業を行う生産方式は、戦後の量産家具の製作に取り入れられます。
大川の木工関係者のたくましさが感じられます。

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大川家具の歴史と榎津指物の起こり11

第二次世界大戦後の異常な大川

戦争での敗戦は、日本の住宅や設備、文化や人間の心までも、全てを破壊して終結したが、全国の戦災復興や炭鉱住宅等の需要が一斉に始まり、大川には異常な木工ブームが訪れる事になりました。

敗戦国のどん底から、這い上がる為には、日本人が平和的な経済立国を再構築するための夢を描く事が必要でした。全ての住宅や家具は破壊され、何も無い状態ですので、誰もが貧しく、とりあえずの応急措置を至急行わないといけない状況でした。

住宅は、質はあまり重視しない、間に合わせの文化住宅や集合住宅が普及して、家具も今までの純和風ではなくて、洋風的な安価な家具が必要とされる様になります。

このような異常な時代背景の中で、大川に与えられた使命は量産家具の製作でした。

この戦前、戦後を境に、大川の家具作りは、大川の伝統的な家具造りを頑固に守りながら、良いものだけを造り続けていく職人と、時代の要求に応じて、量産品製作に切り替えていく職人の二分化が進みました。

これが大川の伝統工芸家具造りと産業家具工業品の分岐点となりました。この結果、大川の家具には、二つの顔が存在する事になります。

【戦後の桐箪笥】

【ダイハツ・ミゼットはダイハツ工業が1957年(昭和32年)から発売された軽三輪トラックです。大川ではほとんどの家具が馬車による輸送でしたが、三輪車トラックの普及により、家具や木材の輸送手段として使われる様になった。 】

昭和27年(1952年)三輪車トラックの登場により丸太の陸送が可能になり、筑後川での筏流しが夜明けダムの建設によって終わりとなりました。

大川家具の歴史と榎津指物の起こり12

座の生活から、 椅子の暮らしへ

畳の間が少なくなり、ダイニングキッチンやリビングルームに変わっていった事で、家具のデザインは一変して行きます。

  • お茶の間のちゃぶ台はダイニングテーブルへ
  • 水屋は洋風食器棚へ
  • 長持ちは夜具入れ、洋服箪笥へ
  • 和茶棚や飾り棚はー洋サイドボードへ
  • 裁縫台はミシンへ
  • 座の鏡台はドレッサーへ
  • 嫁入り道具は洋風の婚礼セットへ
    • 3点セット(1)和ダンス(2)昇りタンス (3)洋服箪笥 
    • 他に鏡台(ドレッサー)、下駄箱 が婚礼セットに加えられました。
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